トニノ・ランボルギーニ

ランボルギーニの歴史


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創業者フェルッチオ・ランボルギーニ

創業者フェルッチオ・ランボルギーニ氏(以下、フェルッチオ)は、1916年レナッツェオというイタリア北部の小さな村の農家に生まれた。

幼い頃から両親が使う農業機械に大いなる興味を持ち、機械の勉強をする為、工科大学に進学。卒業後の1939年、戦争中だった当時、フェルッチオは徴兵され軍の整備兵となり、一時捕虜となってしまうが、1946年無事帰国。

そこでフェルッチオはあるものに目をつけた。戦争が終わり、不要となった軍のトラックです。
軍が放出するトラックを改造し民間用にトラクターとして販売する事業に乗り出した。
敗戦直後であらゆる物資が不足していた当時、フェルッチオのトラクターは飛ぶ様に売れ、たちまちフェルッチオ・ランボルギーニの名は、イタリア産業界のビッグネームとなった。


フェラーリへの疑問

トラクターの製造、販売事業で成功を収めたフェルッチオは昔から大の車好きで、当時一般庶民の憧れでもあり、イタリアで成功した者の証でもあるフェラーリを購入し優雅にドライブを楽しむ生活を送っていたが、フェルッチオは内心フェラーリの価格に対しての品質には満足はしていなかった。

そんな時、トラブルが起きたフェラーリのクラッチを交換しようとパーツを発注したところ、送られてきた物は、なんと自分が生産しているトラクターで使っているのと同じ物で、しかも10倍もの料金を請求されたのだ。これに激怒したフェルッチオはすぐにフェラーリ社に抗議、しかしフェラーリ社はこれを聞き入れず鼻であしらった。


フェラーリを超える欠点のないグラン・トゥーリズモを造りたい

こんなフェラーリに大きな疑問を抱いたフェルッチオは、自身でフェラーリを超える車を作る事を決意し、1962年アウトモビリ・ランボルギーニSPAを設立。

そこで彼のモットー『(前略)私は多くのグラン・トゥーリズモの中に、いくつかの欠点を見いだした。暑すぎたり、乗り心地が悪かったり、十分に速く無かったり、仕上げが完全で無かったりするのだ。今や私は欠点のないグラン・トゥーリズモを造りたい。技術的な化け物では無く、正常で、非常に常識的で、しかも完璧な車を!』
そうして翌年ランボルギーニ社の1号となる350GTVを発表し、フェラーリをはじめとするイタリアのスポーツカーメーカーを驚愕させた。

その後、400GT、ミウラ、イスレロ、エスパーダと毎年のようにV型12気筒DOHCを搭載したニューモデルを、不屈の闘魂を表す闘牛をエンブレムとして世に送り出してきた。
それらは販売台数ではフェラーリに遠く及ばなかったものの、メカニズムの上では他のどのロードカーより進歩的で、その後のカウンタックLP400、ミウラはイタリア国内だけでなく、世界のカーマニアの憧れのスーパーカーとして注目されるようになった。その後数々のF-1GPにV12搭載エンジンを送り出し、日本では鈴木亜久里、片山右京が入賞し名声を得るものとなった。

息子トニノがその意思を継ぐ

敗戦直後のイタリアの中、トラクター販売から始まり、より完璧な車を作りたいという信念の元、遂にはフェラーリをも超える車を完成させた。これがフェルッチオ・ランボルギーニである。
現在は息子のトニノ・ランボルギーニ(トニーノ・ランボルギーニ)が意思を引き継ぎ、ロードカーのみならず多方面に活躍中である。